幹の会と株式会社リリックによるプロデュース公演の輝跡

 

第2回 私の『王女メディア』メモ


不思議なもので、「演劇評論家」と称して古典芸能から現代劇、大劇場から小劇場と、ほぼすべてのジャンルの芝居を年間200本近く観る生活を30年以上も続けていながら、同じ舞台を何度観ても新たな発見がある。
この「発見」が同じ舞台へ何度も足を運ばせる原動力になっている。
『王女メディア』にしても2週間前に東京グローブ座で観た時には感じ取れずにいた細部が見えて来る。
 
 暗い客席の中でメモをした殴り書きからいくつか拾ってみよう。
・新しい妻の死の様子を聞く場面、平は無言だが、全身で自分の企みが成就したことをうっとりして表現している。この法悦境の瞬間にだけ、直後に彼女を襲う悲劇から目を背けていられるのだろう。
・幕切れに女神像が崩壊するのは、夫に背かれ、復讐が成功した瞬間に引き裂かれ、崩壊し、轢断されたメディア自身の象徴だろうか。
・「肉体が語る」ということについて考え直すこと。
 
 最後の「・」は、私が自身に課した宿題だ。
この舞台は、回を重ねれば重ねるほど、どんどん余分な物が削ぎ落とされてゆく。
衣裳も装置もシンプルな物になり、最終的には役者が持つ肉体のみで観客と対峙し、この物語が持つメッセージをどこまで伝えることができるか、という勝負だ。
こうなると、役者の実力がもろに問われる。
私は、それを「肉体が語る」という言葉でもう一度自分の考えをまとめるべきだ、と感じたのだ。
その言葉が上記のメモだ。
 
 ジャンルは違うが、歌舞伎の舞踊で女形が艶やかな衣装に包まれ、美しい女形ぶりを見せて観客を魅了する。
その一方、着流し、もしくは袴だけを付け、化粧をせずに踊る「素踊り」と呼ばれる物がある。
こちらは舞踊家が踊る場合が多く、衣装や化粧など、補助的な役割を果たすものは一切なく、踊り手の実力が問われる。
『王女メディア』は、歌舞伎で言えば素踊りのような難しさを求められる水準に達している、ということだ。 
 
別の例えを挙げれば、「えぇ」というたった2文字の台詞の中に、何色の感情を込められるか、それを伝えられるか、ということだろう。
同じ「えぇ」でも、100%に近い肯定から、不本意ながらやむを得ずの同意まで、無数のグラデーションがなくてはならない。
そうした台詞の力、それが問われる舞台なのだ。
 
カーテンコールが終わり、楽屋で平さんに挨拶をして外へ出ると、もはや夕暮れ近く、雪がチラつき始めている。
今晩は冷えそうだ。夜中に、宿で温度計を見ると‐2度。寒がりの私には残酷な数字だ。